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twitter始めました [エッセイ]

どうもここ一年半位の傾向ですが、筆が重いといいますか、観る映画の本数は増えているのにも関わらず、気軽に感想も書かないようになってしまいました。それは自分なりの要求水準が高くなっているせいもあるのかもしれませんが、なんだか他サイトの更新情報の記事ばかり続くのもどうかと思い、流行のtwitterを始めてみることにしました。
まだちょっとしかやっていませんが、字数的には短評すら書くのは厳しいんですが、ちょっとした感想や思いつきを気軽に書き込めるのは確かにいいと思います。なるべく、観た映画や読んだ本のことを書いていきたいと思います。
お気軽にフォローしてください。
http://twitter.com/miyukinatsu

近況 [エッセイ]

5月からフルタイムで働くのを辞めて入ったベースで仕事をしています。暇ができるのかと思ったら、何故かいろいろと忙しく、やっと一段落しました(衣替えも一昨日やっとやった、例年で一番遅い)。「会社辞めたらあれもやって、これもやって」ということが溜まりすぎていたんでしょうか。その一つ、図書館に行って小説すばるに連載していた桐野夏生の『IN』の連載を全て読む、というのをまずやった。これは本当に夢想に近い憧れを抱いていた(作者本人が本にはならないと言っていたので)のですが、近々単行本化されるみたいですね。
感想は・・お正月に、たまには桐野以外の小説も読んでみようと思い立って、湊かなえの『告白』という本を読んだ(小説推理新人賞受賞)。もちろんよくできているのだが何かが足りない。何かというのはつまり悪意なんだよね。桐野ワールドにて、作者が登場人物に持つ悪意に慣れてしまうと、なんともぬるま湯みたいに感じてしまうのです。というような悪意が、『IN』では作者本人と、作者がかつて愛した男(?)にも当然のことながら向けられるので、書いててしんどそうだなぁと思いました。近年の傑作『東京島』には届かないかもしれませんが、読み応え十分です。

試写は『精神』http://www.laboratoryx.us/mentaljp/index.php。『選挙』の想田和弘監督の精神障害者を描いたドキュメンタリー。『選挙』は実はあんまりピンとこなかったんですが、この監督、結構すごいかも。
『美代子阿佐ヶ谷気分』http://www.wides-web.com/miyoko_main.html。なかなか面白かったです。最近映画雑誌などでも60~70年代など、昔の特集をすることが多いですね。不況下はノスタルジックになるんでしょうか。別に影響されたわけではないですが私も原一男監督の昔の作品などを見直していました。
あと『ロシア革命アニメーション1924-1979』http://www.takeshobo.co.jp/sp/russia/。これは本当によかった。実はアニメってあんまりなんですけど、特にウラジーミル・タラソフ作品は、そんな人にこそ見てほしい作品です。アニメーションでしか出来ないことがやっぱりあるんだなぁと感じさせられました。

ロードショーは話題作の『グラン・トリノ』と『チェイサー』を観ましたが、どっちもとてもよく出来ているのは認めつつ、なんかひっかかるものがありました。両作品とも、説話的なクライマックスが女性の肉体を傷つけることによって訪れることにひっかかるんですよね。「でもそれじゃそういう出来事とか女性とか描けないじゃん」と言われそうですが、そうではなくて、それらの女性が男性主人公の目からしか描かれないことにひっかかるんじゃないんでしょうか。ヒーローを盛り上げるために傷つけてんじゃないか、って気がどこかでしてしまうわけです。特に『グラン・トリノ』はイーストウッドはそりゃ気持ちいいだろうなぁというなんとなくやり場のない(よく出来ているので)怒りを感じました。そういう意味では私は『チェンジリング』の方が好きです。

あとは大阪に行った時泊まったビジネスホテルで食べた焼きたてパンがあまりに美味しかったので、定額給付金でホームベーカリーを買ってパンを焼いたりしています。おいしいよ!!
てな感じでやっています。お仕事の依頼は気軽にメールにてご連絡ください。今後ともよろしくお願いいたします。

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  • 作者: 桐野 夏生
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/05/26
  • メディア: 単行本



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  • 出版社/メーカー: 象印
  • メディア: ホーム&キッチン



なんで映画なんだろう [エッセイ]

土曜の午後中映画を観たりしていると、映画館を出た瞬間さすがになんで自分はこんなに映画ばっかり観ているんだろうと素朴に疑問に思う時がある。友人や恋人との語らいとか、親孝行とか、子育てとか、自己研鑽とか、もっと別の時間の使い方も当然あるだろうに。

私が映画をどうしても捨てられない理由を考え始めると、浮かぶのは何故か「生涯の一本」といった類の映画ではなく、そもそも映画ではなく、ロベール・ルパージュの『月の向こう側』という一人芝居だ。人類が持ってきた、或いは今後も持っていくであろう野心と、幻想と、幻滅が、決して限定されることのないイメージの膨らみの中に浮かび上がってくる芝居。

野心や希望を持つのは人間である限り当然のこと。でもそんなものを持ってしまうからこそ、挫折や幻滅もある。恋なんてしなければ、失恋することもないのに。そんな人間の姿を、切実に誠実に描けているのは、最近はドイツ映画のような気がする。ファティ・アキンの『愛より強く』、クリスティアン・ペツォルトの『イェラ』など。

そして? 結局最初の問いに戻る。私の映画好きは一体何のためなんだろう。でもなければ生きていけない。というのは言いすぎで、実際生きていくだけならできるのだろうが、より強く、生きていく勇気を与えられる。というのは、私自身が、野心や希望を人よりも持ってしまうタイプだからだろうか。

昔、大学時代の先生が、「映画を観るということは、やはり現実逃避の側面もある」というようなことを言っていて、反発を感じたことがあった。それは半分事実だからということもあるだろうが、映画館の中だけで起こっている出来事が、やはり現実にも影響を与えるのではないかと、私は思ってしまう。じわじわと、ゆっくりと、何かが変わっていく。

いい素材を使い、心をこめた料理が人を健康にするように、どんな時でも希望を持ち、闘ってしまう切実な人間の姿を描けている映画は、人を変えることができると、どこかで信じている。


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blog再考(2) [エッセイ]

何故か今日のカウンター現時点で552行ってて、いつの間にか30000を突破していました。ドイツ映画祭に興味がある方たちのおかげなのでしょうか? 私あんまりドイツ映画は詳しくないんですけどね。ラングが好きなくらいで。ドイツ映画祭でも、英語やフランス語が聞こえてくると理解しようと気張ってしまうのですが、ドイツ語だと全然わかんないので、気楽といえば気楽でしたが。

そういえばこのblogの一番最初の記事は、一昨年のドイツ映画祭、クリスティアン・ペツォルト監督の『幻影』でした。たまに思いついたようにしか書き込みしないのに、こまめに読んでくださる方々のおかげで、細々と続けて来れました。みなさんの足跡(カウンター)や、時折頂けるコメントが、孤独な映画生活の中でどれだけ心の支えになったかわかりません。いや、本当に。

これからもどうぞ宜しく。


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書くことの恐怖 [エッセイ]

遅れましたが、あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
私は一息つくといつもエッセイを書くが、エッセイといっても私の場合夫や子供のことではなく(勿論両方いないということもあるのだが)、かといってテレビや芸能や時事ネタというわけでもなく、「書くこと」について書くことが多い。
昔書いたものを読んでみると、「書くことは楽しい」と言っているものもあるのだが、えんえんと「書くことが怖い」としか言っていないようなものもあり、よく読むと「書くことは楽しい」と言ってるエッセイでも、書くことへの恐怖感はひっそりと隅で息づいているような印象を受ける。
そう、書くことは怖い。それは今でも変わらない。ただ「怖い」理由の中で、一番高いパーセンテージを占めているのが「(たいしたものが)書けないかもしれない」不安なので、それは書く場数が増えることによって、だんだんと軽減していっている気がする。
例えば昨年の年始雑感で、「一日にどの位書けるのか、全然読めない」みたいなことを書いたが、これは大体予想がつくようになった。まぁ、一日何枚とノルマを決めて書くようなことはしないので、一週間とか一ヶ月単位でおおまかに予想するだけだけど。昔村上春樹に関して羨んでいた「自分がいつ頃小説を書くかと、大体のページ数が分かる」に近い、書きたいことに対して大体の枚数が想像できるようになったのが気がラクになってきた大きな要因だろう。「書けない」のは「自分の中で詰まっていない」か、「物理的に書く時間がない」のが主な理由なので、わけのわからない不安で苛立ち家族や友人に八つ当たりするようなこともなくなってきた。
書くことへの恐怖感の中で、二番目に高いパーセンテージを占めているのは、「書くことが前もって分からない」ことだ。そして、これはいまだに克服できない。というか、克服してはいけない気がする。前もって分かっていることを書いても自分が面白くないし、多分読む人も面白くないからである。
よく書くときに「何か」が「降りてくる」という比喩を使う人がいる。これもあながち間違ってはいないと思うのだが、私の場合「自分が地下室のようなところへ降りていく」というイメージの方が強い。「どこかわからない暗い場所」なのだ、そこは。階段につまずきそうになるし、視界が利かないし、何よりも「どこか分からない」のでとても怖いし、不安だ。何よりも、地下室といったら昔から邪悪なことが行われてきたと相場が決まっているし。私は、書くことによって、その闇の片隅を照らす柔らかな蝋燭の光を灯すだけだ。そこの一角だけ、視界が利くようになる。既にこの世にいない人、虐げられてきた人の、顔が見えたりする。でも意味は自分でもきっとよく分からない。
何度もその地下室に降りて、蝋燭を置いてくることによって、いつかはその地下室が全て繋がっていること、その全貌が、分かるのだという気がする。
きっと、そんなこと。ただそれだけのこと。


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blog再考 [エッセイ]

このブログも始めてから一年が過ぎ、最近多忙でなかなか書き込みができないものの細々と続けております。私がブログなるものに着手したのは、映画評などを書いていたホームページのデータをパソコンをリカバリーした際に手違いで消してしまったせいなのですが、いざ始めたら、とても便利なツールであることを痛感しました。やはり他人のブログを覗いていても思うことなのですが、検索機能が便利だし、コメントも頂けるととても嬉しいです。
あと自分が書いた記事が、どのくらいのアクセス数があるかでどんな人が読んでくれているのか類推するのも面白いです。記事によってとてもばらつきがあり、いま一つ理由が分からなかったりするものもあるのですが。とりあえず10/21時点でのアクセス数ランキング(一番右がアクセス数です)。

1.ある子供 http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2006-01-13 604
2.成瀬巳喜男特集 http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2005-09-24 312
3.韓流のゆくえ http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2005-09-28 295
4.世界/ジャ・ジャンクー http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2005-12-11 291
5.ミヒャエル・ハネケ映画祭&『隠された記憶』 http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2006-05-04 288
6.『キングス&クイーン』 http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2006-01-29 257
7.東京フィルメックス http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2005-11-26 252
8.キングス&クイーンふたたび http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2006-02-27 243
9.『キングス&クイーン』再見 http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2006-02-12 237
10.うつせみ/キム・ギドク http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2006-03-10 232
10.嗚呼!ジャンヌ・モロー http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2005-07-24-1 232

まぁ単純にトラックバックのおかげなんでしょうかね・・。私は積極的に他人のブログにTBする方ではないし、そのへん疎いんですが。というか全部映画の記事ですね。みんな映画が好きなのか、映画の媒体が充実していないのか、私の他の記事が面白くないのか。三つともなのかな。


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翻訳に明け暮れる [エッセイ]

翻訳に明け暮れる毎日。面倒くさいんだけど楽しくないわけでもない、疲れるのと飽きるのであんまり長時間はできないけど机に向かうとついつい始めてしまう、なんかマゾ的な喜びがあるよね、翻訳って。朝早起きしてやるなんて執筆では考えられないもんなぁ。自分を消す喜びがあるんでしょうね、きっと。
飽きるとパソコン新調した時についてきた「エンカルタ 総合大百科2006」のバーチャルツアーをやっています。これ結構楽しい、安土城に登っちゃったよ。

Encarta 総合大百科 2006 DVD-ROM

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身勝手な夢 [エッセイ]

ドゥルーズ「無人島1969-1974」より、「資本主義と分裂病」、ドゥルーズとガタリに対するインタビュー。引用したいところだが長くなるのであとがきの簡潔な要約。
「ある精神科病棟で、インターンたちが、病院長の禁止命令に反して、ひそかに病室でトランプ遊びをするのを常としていた。かれらが選んだ病室は、カタトニー状態の患者の病室であった。ある日、トランプ遊びが目に入らないようにとのことで看護人の手によって顔を窓側に向けられていたその患者が、たった一言だけ、「院長が来た」と声を発した。その後、患者は再び沈黙状態に戻り、そのまま数年後に死亡した。こんなエピソードである。ドゥルーズはその患者に希望を見出し、ガタリはそのインターンたちに絶望を表明していた。」
或いは内田樹氏の2005年12月24日の日記。http://blog.tatsuru.com/archives/001448.phpこちらはリンクフリーということなので長々と転載。
「無意識と時間意識のかかわりについて考えるきっかけになったのは先日春日先生にうかがった統合失調症の「幻聴」の話である。幻聴というのは、自分の思考が声になって聴こえるという病症である。幻の声が自分の思考を「先回り」して言い当ててしまう。本を読んでいると、本のまだ読んでいないところを幻の声が読み進んで筋をばらしてしまう。これを患者は「宇宙人からの指令が聴こえる」とか「脳内にチップを埋め込まれた」といった定型的な作話によって「合理化」しようとする。
でも、よく考えたら、「そんなこと」は誰にも起こる、まるで当たり前の出来事なのである。アナグラムの例から知られるように、私たちは瞬間的に一望のうちに視野にはいるすべての視覚情報を取り込んで処理することができる。本を開いた瞬間に見開き二頁分の視覚情報を入力するくらいのことは朝飯前である。だから、私たちは実は頁を開いた瞬間に二頁分「もう読み終えている」。
しかし、私たちは「すでに読んでしまった文」を「まだ読んでいない」ことにして、一行ずつ本を読む。
なぜ瞬間的に入力された情報を段階的に取り出すような手間ひまをかけるのか。私にはその理由がまだよくわからない。よくわからないままに、直感的な物言いを許してもらえれば、たぶん、それは「手間ひまをかける」ということが「情報を適切に処理すること」よりも人間にとって重要だからである。「手間ひまをかける」というのは言い換えると「時間を可視化する」ということである。おそらく、無時間的に入力された情報を「ほぐす」という工程を通じて人間的「時間」は生成する。一瞬で入力された文字情報をあえてシーケンシャル処理することは、知性機能の「拡大」ではなく、機能の「制限」である。私たちの知性はおそらく「見えているものを『見えていないことにする』」という仕方で「能力を制御する」ことで機能している。
それに対して、統合失調の人たちはおそらく「見えているものが無時間的にすべて見えてしまう」のである。かれらは「〈超〉能力が制御できない」状態になっている。発想の転換が必要なのだ。
私たちは精神病というものを知性の機能が停滞している病態だと考えている。人間の認識能力が制御されずに暴走している状態が統合失調症なのである。私にはそんな気がする。」

長々と引用したのは、二つの文章の類似を指摘したいためでもそれに関して何か持論を展開したいわけでもない。そもそも統合失調症に関する知見がそれほどない。ただ私が心打たれたのは、この文章は二つとも、当の統合失調症の人たちにはほとんど届かないのだろうという事実だ。別に自分をドゥルーズや内田氏と較べる気など毛頭ないのだが、先日、ある人と話をしていて同じようなことを感じた。私の考えていること、書いてることは「身勝手な夢」なようなものではないか、という疑問だ。虐げられ、蹂躙されている人のために考え、書いているようなつもりでいるだけで、その言葉は当のその人たちには決して届かない。結局のところ「自分自身のために」身勝手な夢を、見ているだけなのではないか。

内田氏の引用は続く。「私たちの中では実際に無数の声が輻輳し、無数の視覚イメージが乱舞し、私たちの理解を絶した数理的秩序が支配している。その中の「ひとつの声」だけを選択に自分の声として聴き取り、「ひとつの視野」だけを自分の視線に同定し、理解を絶した秩序の理解可能な一断片だけに思念を限定できる節度を「正気」と言うのではあるまいか。」
成る程、そうするとまだ私は正気のようだ。しかし正気と狂気の境界線にそんなに意味があるのかと問いたい気持ちにも駆られる。私が「身勝手な夢を見る、狂人」であっても、世界はさほど変わらないような気がするのだ。


言葉 [エッセイ]

言葉について考えさせられることがあった。敬愛する方からの拙論文への的確なコメント。褒め半分、ケナシ半分位。最初一読した時は、なんか調子がよくウキウキした時だった。ケナシ言葉ばかりが目に入ってきた。「うっわー」、と、自分でもうすうす分かっていたことを指摘される気持ち良いショックを受けた。そして二度目にじっくりと読んだのは、様々なゴタゴタが重なり(しかしゴタゴタというのは何故こうも重なるのだろう。ゴタゴタがゴタゴタを呼ぶのだろうか)、気分がブルーな時だった。今度は褒め言葉ばかりが目に入ってきた。「これって、愛じゃん」みたいな。ジーンときて、元気になった。やっぱり選んでいるんだろう。その時必要な言葉を、自分で。同じ本を二度読んでも感想が違うのは、成長したからじゃなくて、恣意的に選んでるのだとしたら?
もう一つは、私は昔から「文章が上手い」と言われて育ってきた。作文は章を取ったし、友達は私の書くものをみな面白がり、壁新聞を発行した。仏文科時代もテストではなくレポート提出のみの講義は全Aだった。だから有頂天になり、編集の仕事にありついた時は、いい気になって年上の執筆者たちに采配をふるった。なのに会社を辞めてしまったのは、もっと書く時間、書くために勉強する時間が欲しいと思ったからだった。そして時間が経ち、今こんなブログを書いている。
でも、最近はたと気がついた。自分の考えていることを上手く言葉に表せない。上手く人に伝わらない。誤解させて人を傷つけてしまったり、上手く伝わらなくて自分が傷ついたりする。年を重れば重ねるほど、なんだかそんなことが多くなってくる。若い時は何故あんなに水を得た魚のように言葉を操れたんだろう。今の私の言葉には若い時にはなかった何かヘンな重みがある。ヘンな瑕疵がある。へんな場所に行き、ぶつかり、傷だらけになって、血を流している。おかしな子たち。そして、そんな言葉たちを、以前よりナルシスティックに愛せない。今の私は、私の言葉によって、生み出された新たな人の言葉によってのみ、癒される。でもそれはきっと、いい傾向なのだと思う。


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村上春樹をめぐる冒険(2) [エッセイ]

・・などと書いていたら、国際交流基金主催の『春樹をめぐる冒険―世界は村上文学をどう読むか』http://www.jpf.go.jp/j/intel_j/topics/murakami/tokyo.htmlの抽選に外れてしまう。本人が来るわけじゃなし、そんなに楽しみにしてたわけでもないけどさ・・でも、くっそー。映画だったら、観たいものが観れないということはほとんどないのに。やはりポピュラリティという点では段違いなのだなぁと痛感する。
弁解するわけじゃないけど、昨日ヤスケンに同情するようなことを書いてしまいましたが、村上氏本人が原稿を売られたことに対して怒るのは当然のことだし、いかにヤスケンを罵ろうと法的手段に出ようと、当たり前のことだと思います。ただ「村上たたき」に関しては批評家の方が多くの責を負っているのではないかということを言いたかっただけで・・。ヤスケンなどそれに追随したフシがあったんじゃないかという記憶がかすかにあるのだけれど。批評家の仕事は、かくも責任が重いものなのだと思う。そもそもヤスケンって批評家じゃないでしょ。ヤスケンがそんな覚悟があって書いていたとは思えない。編集者の愚痴のようなものを色々と好き勝手に書いていただけじゃないか。その点では、私は内田先生http://blog.tatsuru.com/archives/001598.phpとは意見が違う。でもこの文章も面白いな。


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