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ドキュメンタリーの修辞学 [書評]

今取っているドキュメンタリー講座に是枝裕和監督がいらした時、佐藤真監督の著作「ドキュメンタリー映画の地平ー世界を批判的に受けとめるために」を右手に抱えて「みんな、これ読んだ」「あれ、こんだけしか読んでないの。なんで?」と詰問され、あたふたと購入。「ドキュメンタリー映画の地平ー世界を批判的に受けとめるために」よりは読みやすく、比較的最近の書き物を集めた「ドキュメンタリーの修辞学」から読了。

読みながら、何故自分が昨年の夏くらいからドキュメンタリーに傾倒するようになったのか、ずっと頭の隅にひっかかっていた疑問が解けるような気がした。佐藤監督は、「ドキュメンタリーは世界を批判的に映し出す鏡である」と言う。「さいわいなことに、キャメラとは人間の眼差しとは違って、目の前の出来事を機械的に忠実に記録する<もうひとつの眼差し>だったのである。その冷徹な機械的再現力にこそ、ドキュメンタリーが世界を批判的に映し出す鏡となりうる原理があるのだ」(「ドキュメンタリー映画の地平」より)

『絶対の愛』だって『パラダイス・ナウ』だって『ブラック・ブック』だって『デジャヴ』だって『13/ザメッティ』だって観てるんだけど。上手い俳優や練られた脚本や的確な演出・・いいんだけどさ、でもそれって何か「ごっつあん」って感じ。そうじゃないものが欲しい、何かが足りないと思ってしまう。それは監督さえも想像しなかったもの、偶然映りこんでしまったもの、そんなもの。まさに、「キャメラは人智を超える」のだ。

現在日本で活躍中のドキュメンタリー監督の著作を読んだり、お話を聞いていると、最初からドキュメンタリーを目指していた人は少ないことに気づく。森達也監督、是枝裕和監督は最初はフィクション志望で、森監督は成り行きでドキュメンタリーを撮ることに、是枝監督はやっているうちに面白くなってきた、と語る。佐藤真監督は「映画監督になろうと思って映画に関わったことはなくて、『阿賀に生きる』という映画を撮ろうと思って映画を志した」と語る。

現在はフィクション作品が増えている是枝監督は、「フィクションは、ドキュメンタリーを撮っている時のような、ドキドキする瞬間があまりない」と率直に語る。ドキドキする瞬間・・なんかそれってわかる気がする。何故なら、ドキュメンタリーを観ている時って、観客の私たちも一緒にドキドキするから。監督との一体感、それもドキュメンタリーの魅力かもしれない。

ドキュメンタリー監督のお話は面白い。妻に泣かれても、子供を路頭に迷わせるかもしれなくても、撮らずにはいられない闘いの日常。何か、みんなどこかで「臨界点」を超えてしまったのだろうな、と思わせる。それは私も思い当たる。私は「撮ること」ではなく、「書くこと」でだけど。なんか一線を超えてしまったな、と思い当たる時期がある。監督たちは皆、「大義やイデオロギーが失われ、ドキュメンタリーが撮りにくい時代。私的なものに走るしかないけど、その中でいいものは稀だ」などと悲観的なことを口にするけど、でも今も昔も変わらない、撮らずには書かずにはいられない熱い思いって、やっぱり「自分が世界を変えられるかもしれない」という仄かな希望だったりするのではないだろうか。

ドキュメンタリーの修辞学

ドキュメンタリーの修辞学

  • 作者: 佐藤 真
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2006/11
  • メディア: 単行本


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命日/井田真木子 [書評]

明日はノンフィクション・ライターとして健筆を奮った井田真木子の命日だ。彼女が自ら命を絶ってからもう六年も経ってしまった。その間私は一体何をしていたんだろう。彼女の著作を全部読み直した。彼女について何か書きたいと思っている。でも思っているだけだ。自分が無力だということ、力も時間も足りないということがただ歯痒い。自分を責める気持ちと、井田を責めたい気持ちが交錯する。
井田は遺作となった『かくしてバンドは鳴りやまず』の第三章、「カール・バーンスタイン&ボブ・ウッドワード『大統領の陰謀』」でこのように書いている。「そんな彼への質問を、この何年か私は反芻し続けてきた。そしてときには口に出して言ってみた。「バーンスタインさん。もうおわりですか」と。」
私ごときが井田の口まねをすることは許されないだろうか。「井田さん、もうおわりですか。女性であること、被虐者であることにこだわって、常に彼女、彼らに寄り添って健筆を奮ってきたあなたが、ついに登場人物がほぼ男性だけである『かくしてバンドは鳴りやまず』で、本丸に闘いを挑んだのではなかったのですか。狭いながらも美しく完結していたあなたの夢が、より抽象的、高次元なレベルに高められ、花開くはずではなかったのですか。井田さん、これからだったのではなかったのですか。あなたはもっと書きたかったのではないのですか。」
そして私は何を書きたいんだろう。彼女の命が絶たれてしまった瞬間を思うだけで今でも怒りがこみ上げてくる。そんなことがあっていいはずはない。怒りによって書くことは不幸なことだろうか。そうかもしれない。でも彼女ほど深く静かに、強烈に怒っていた書き手を、私は他に知らない。

かくしてバンドは鳴りやまず

かくしてバンドは鳴りやまず


関連記事:桜の木の下に埋まっているものは・・?http://www014.upp.so-net.ne.jp/miyukinatsu/kakukoto7.html


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下山事件<シモヤマ・ケース> [書評]

ドキュメンタリー作家でもある森達也氏の「下山事件<シモヤマ・ケース>」を読み終える。事件自体の概要は昔見たテレビドラマで知っている(非常に怖ろしいドラマだった)し、この本の中で何か決定的な新事実が発見されるわけでもないので、事件に対する感想は特にない。森氏の著作を読むのは初めてではないので、相変わらずの森節でとても面白く読めた。ただアマゾンの読者評(単行本の方)を読んで唖然。けなすコメントばかりで、森氏ってあんまり好かれていないんでしょうか。
確かにちょっと前に放映された森氏に関するドキュメンタリーで垣間見た森氏は、いかにも性格が悪そうだった。でも性格の良いテレビマンとか性格の良い映画作家なんて信憑性ないよね。『A』や『A2』、それにいくつか著作を読めば、森氏なりの矜持や性格の良さは分かると思うんだけど・・。
この本の中でとても好きだった部分を忘れないうちにメモ。
「正義を行使することに、どうしても居丈高になれないのだ。仕方がない。もって生まれた性癖なのだろう。子供の頃がらヒーローものには熱狂できなかった。勧善懲悪がダメなのだ。ヒーローにあっさりとやられる悪の結社の手下たちの日々の営みや心情を想像して、どうしてもストーリーに没頭できなかった。
だからこそ、半世紀前に下山を殺害した男たちが、深夜の線路脇の土手を遺体で担いで歩きながら、ふと見上げたであろう夜空を僕は想像してしまう。」
すごく森氏らしい文章だと思いました。この話はまた後日。

下山事件(シモヤマ・ケース)

下山事件(シモヤマ・ケース)


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小説版「ゆれる」 [書評]

西川美和の映画「ゆれる」には非常に感銘を受けたもののその小説版については、存在は知っていたものの映画のノベライズという印象がどうしても拭えず、買ってまで読む気はせずそのままになっていた。しかし映画祭の合間にできた時間を利用して手に取り、読み始めたものの引き込まれてしまいついに購入し、帰りの電車の中で読みきってしまった。
映画とストーリーが違っているわけではない。猛、稔、智恵子、勇、修、洋平と各登場人物がそれぞれの視点で、言葉で語りだすことによって、映画では省略されているディティールや各々の気持ちが深く理解できるようになっているだけだ。映画を観てから読むと登場人物の顔を浮かべながら読むことができ、もう一度映画で味わったのとほぼ同質なラストの感動を味わえるようになっている。
・・とここまで読むとあまり褒めているように聞こえないかもしれないが、一つだけ非常に映画と印象が違うものがあり、そこに私は引っ掛かり、そして惹かれた。それは猛のキャラクターに関してのものだ。西川監督がこの小説を書いたのが映画を撮った後であったというのは、雑誌の記事で読んだ曖昧な記憶で確かではないのだが、そうだとしたらその印象の差異というのは突出している。
映画での猛はとてもイマ風の若者でイケているものの、軽そうで写真集を何冊も出した「腕のいい評価されているカメラマン」にはあまり見えない。小説で「腕のいい評価されているカメラマン」という描写がされているわけではないが、映画ほど軽い男の印象は受けない。どちらかというと一本気で、兄思いの性格に思える。そして裁判で兄を実刑に追い込んでしまった後。小説では「もう俺のは写真じゃない」と猛ははっきりと言っている。「俺の目は、あれ以来も何もとらえることもしなくなった」と。しかし映画で私はそこまで猛にたいして落ちぶれた印象は持たなかった。髪の色を落とし、ラフな服装になった猛は多少うらぶれては見えたもののより「カメラマンらしく」見えた。地に足をついた生活をし、悲しみを乗り越えてもっといい写真を撮っているのかと思ってしまったほどだ。「写真」に関して印象は真逆になっている。兄を迎えに走らせている車の中で洋平は猛についての印象を「雨風にさらされて外壁がホロホロと朽ちた古い建物を連想させた」「この男が傷んでいくことを、誰も止められないのか」とまで言っているが、ここも私はそこまで猛が傷んでいる印象を持たなかった。せっぱつまっているものの、やはり猛は猛だ。たまたま見てしまった古い家族の映像によって、感傷と罪悪感と兄への愛情に駆られてはいるものの、野生の動物のような自分勝手さとエゴイストぶりが全く消えてしまっているわけではない。
そしてそこが『ゆれる』という映画の良さなんだろうなぁと思った。実力があったカメラマンが、兄を陥れたことによって落ちぶれるなんていうのは、やはり綺麗ごとすぎ、作りすぎであり、小説の中の出来事でしかない。実際は、兄を陥れたことによってさっぱりし逆に仕事が良くなったり、兄を迎えに行くという善意の行為の中にも結局は自分のためにやっているエゴイスティックさが見え隠れする。そのように人間は単純に割り切れない複雑なものであり、善悪の境をうろついているからこそ猛は映画の中であんなにも観客を惹きつけるのである。何度も引用するようだが優れた映画は「単純な正邪の彼岸に観る者を連れてゆく瞬間があり、人間の解らなさに向けて観る者の思考を開いてゆくところがある」(樋口尚文氏)。そして、猛は根っこのところは決して変わらないからこそラストがあんなにも心を打つのだと思う。
今述べたような差異がオダギリジョーという俳優の才能によるものなのか、それとも映画を撮るうちにそうなってしまったいわば必然的なものなのか判断がつきかねるが、コントロールしたがる監督(綿密な脚本を書く西川監督は明らかにこのタイプであろう)のコントロール外の部分が最も面白いというのは、ヒッチコック始めとする優れた映画作家の一つのタイプであることは確かで、そういえば違う視点によって繰り返される事件、嘘のフラッシュバック、裁判、兄弟(相似形)の確執、など、ヒッチコック的キーワードが『ゆれる』には満載であることに今更気づくのであった。
そういえば雑誌で西川監督が推薦していた本を私も推薦しておきます。「心臓を貫かれて」/マイケル・ギルモア著。『ゆれる』とテーマが重なるところがあると監督自身も述べています。壮絶な実話をもとにした本なのであまり気軽にコメントは書けないし、実は褒めていいのか迷うところもあるのですが、一読の価値はあります。

ゆれる

ゆれる

  • 作者: 西川 美和
  • 出版社/メーカー: ポプラ社
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 単行本


心臓を貫かれて〈上〉

心臓を貫かれて〈上〉

  • 作者: マイケル ギルモア
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1999/10
  • メディア: 文庫


心臓を貫かれて〈下〉

心臓を貫かれて〈下〉

  • 作者: マイケル ギルモア
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1999/10
  • メディア: 文庫


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カズオ・イシグロ [書評]

カズオ・イシグロの新作「わたしを離さないで」を読んで以来、こんなに好きになった作家は今までいなかったのじゃないかと思うほど嵌っている。しかし彼の小説の魅力を言葉で表すのは難しい。彼の小説は小説が今まで立ち入らなかったところに入り込んでいるような気がするのだがそれは単に私が無知だからだろうか。
とりあえずBARRY LEWISの「Kazuo Ishiguro」を読み始めたところ。

わたしを離さないで

わたしを離さないで


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99999[ナインズ]/デイヴィッド・ベニオフ [書評]

この本を手に取ったのは勿論『STAY』を観て脚本家のデイヴィッド・ベニオフに興味を持ったからだ。スパイク・リーが監督した『25時』は観た直後は熱のこもった賛辞を書いたものの、結局その年挙げたベスト10には漏れてしまった。ベニオフの脚本はいいんだけどその良さがとても儚ないものだというイメージがあり、『STAY』でもそのイメージは覆されなかった。
しかしその儚き美しさがむしろ文学には合っているのではないかという一抹の期待が私にこの本の頁をめくらせた。そして8篇からなるこの短編集は一篇目から私を魅了した。そのイメージの豊穣さ、人間の、人間が作り出す世界の掴み方のキメラのような驚くべき複雑さ、精緻さ。才能は疑いようがない。むしろ映画監督の方が彼の脚本を使いこなせていないのではないかという感想を持った(特にスパイク・リーなどは。マーク・フォースターはわりと健闘しているのではないかとは思うが)。
何よりも、叙情的にもシニカルにもなりすぎない微妙な匙加減が効いた読後感が本当に素晴らしい。パーティの始まる前のお喋り、ライブの始まる前の一瞬の静寂、花火の上がる前の夕暮れ、読者はあらゆるエクスタシーの直前の瞬間のような至福の読後感を得られるであろう。
訳者である田口俊樹氏は後書きで「どの作品を見ても読後ほのかなぬくもりが胸に残るのは」「ぼんやりとしたあきらめを知る眼を通して世界が描かれ、等身大でありながら印象深い登場人物もまたそうしたあきらめを体得しているからだろう」と書いている。私はこの本の登場人物たちが「ぼんやりとあきらめている」から、「読後ほのかなぬくもりが残る」のだなどとは思わない。これは比較の問題なのか世代の問題なのか分からないがとにかく私はそう思わない。戦争、エイズ、嘘、裏切り、不慮の事故、あきらめなければならないことが多くても、彼らは決してあきらめていない。確かに彼らは怒りの鉄拳をふりかざしたり革命を起こしたりはしないのだが、彼らの願いは、彼らの愛は、暗闇の中をひっそりと流れていく音楽のように確かに耳を打ち、場を、時間をその美しさで満たし永遠のものとする。
この短編集はその一行を読んで鳥肌が立ってしまった箇所が少なくとも二箇所あり、その鳥肌の立ち方で思い出したのは村上春樹の短編「神の子どもたちはみな踊る」であった。関連はまだ自分でもよく分析しきれてないのでできたら後日してみたい。でも単純に文学で鳥肌が立つのって結構珍しいよね。おススメ。

99999(ナインズ)

99999(ナインズ)

  • 作者: デイヴィッド ベニオフ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/04
  • メディア: 文庫


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女はファーストフードとスローフード、どちらを欲望するか? [書評]

内田樹氏の「街場のアメリカ論」を読んだ後、つねづね氏がフェミニズムに関して書いていることへの違和感を解消するため「女は何を欲望するか?」も読む。私は「映画の構造分析」を読んでから、氏のユーモアのセンスと事象の把握の仕方のワイルドさ、レンジの広さに関し好意的であったのだが、この二冊はその点では期待外れだ。
「街場のアメリカ論」は概ねは面白く、相変わらずの内田節が堪能できる。しかし私が首をかしげざるをえなかったのは「第2章 ジャンクで何か問題でも?-ジャンク・フード」である。一読して流してしまいそうになるのは内田氏がタイトルどおり「スローフードはムッソリーニのファシズム誕生の地、ピエモンテが生誕の地だ。実はフランスの反ジャンクフード運動も極右の国民戦線とその支持層がからんでいる。「ドイツ伝統的食文化を守る」という運動はヒットラー・ユーゲントの自然回帰運動に流れ込んだ」というような具体的な事例を挙げて、「ジャンク・フードで何が悪い」ということを言っているだけなのだが、そこでいみじくも反ジャンクフード運動と一緒にフェミニズム運動が批判されている通り、続けて「女は何を欲望するのか?」を読むと、気になるところが出てくるのだ。
「女は何を欲望するか?」は氏が最後に述べている通り、内田氏の「フェミニズムに賛成で、反対」というアンビバレントな姿勢をよく表している書物であり、私の場合批判の対象となっているフェミニストにあまり思い入れがないということもあるのだろうが(主な矛先の対象はボーヴォワール、イリガライ、フェルマンなど)、思ったよりも全然腹は立たない。フェミニズムに関してあまり知識がない人は勉強になるかもしれない。ただ一読してなんとなく丸め込まれたような「?」という気分になるのは、内田氏のフェミニスト観それ自体に違和感を覚えてしまうところが大きいのだと思う。
例えば、内田氏はこのように書いている。「男性に伍してばりばり働き、なんらかの社会的アチーブメントを経験したいという女性の邪魔をする気はない。どうぞご自由にがんばってもらいたい。けれども、あなたが必死になって求めている権力や地位や名声やお金には、一人の人間が命がけになるほどの価値がないということは言っておきたいのである。それとは「別の」たいせつなものが世の中にはたくさんある。それこそ無数にある。そして、社会システムがバランスよく、気分よく運転するためには、できるだけみんなの欲望の対象がばらけている方がほんとうはよいのだ」
一読すると流してしまいそうになるのは、それほどはおかしいことが書かれていないからだろう。しかし、ちょっと待てよ。なんで女性が学や安定したやりがいのある職を得るため、自己実現するために頑張ること、権利主張することが、「男性に伍してばりばり働き」、「必死になって権力や地位や名声やお金を求めている」などという言葉で表されなければいけないのであろう。フェミニストは権力や地位や名声やお金を求めて講演したり、本を書いたりしているのだろうか。そもそも男性自身、権力や地位や名声やお金を求めて仕事してるのだろうか。肝心の内田氏は? あなたはこの「「女は何を欲望するのか?」という本を、地位や名声やお金を求めて書いたんでしょうか。
そもそも私は内田氏のブログhttp://blog.tatsuru.com/archives/001073.phpで、内田氏が「ダメだよ、こんな論文、こんなものに学位は出せん」と言う代わりに、「早く結婚した方がいいぜ」と言う時がある(内田氏はそれをセクハラと言われても困るという文脈でその話を出している)と書いているのを読んだ時から、何か納得できないものを感じていたのである。「こんな論文ダメだよ」と言われる代わりに「早く結婚した方がいいぜ」などと言われないために、フェミニスト諸氏は頑張ってきたのではないかという疑問がフツフツと湧いてきて止まらなくなってしまったのである。
私の違和感はこの本において「権力や地位や名声やお金を重視する資本主義に沿った生き方」と、「それとは別の大切なものを大事にする生き方」と、二つしか選択肢が提示されないことだ。それって、まんま「ファーストフード」と「スローフード」だよね。内田氏は「第2章 ジャンクで何か問題でも?-ジャンク・フード」でも「私自身は「スローフードもよし、ファーストフードもよし」というどっちつかず寛容なスタンスを採用することにしています。どっちも美味しいし」などと締めくくっているのですが、でも食べ物の分け方ってその二つしかないの? 例えば私が今日作った鶏肉のバルサミコソース炒めはどっちに入るの。Iに作ってあげると約束したタコライスは? 「ファーストフード」と「スローフード」だけの食生活なんて、私には耐えられそうもない。その二つしか選択肢が与えられないなんて、単純すぎるし味気なさすぎる。
氏は「女は何を欲望するか?」の後半を費やした「エイリアン」分析を締めくくるに当たって、映画についてこのように語る。「「コレクトネス」を求める人々が映画をいくら統御しようと試みても、その勝負は必ず映画の勝利に終わるだろう。(中略)映画はひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するメッセージを非言語的に発信することのできる理想的な詐術の装置である。このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらくもそこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである」
この映画についての愛に溢れた文章を読んでやはり疑問に思ってしまうのは、映画に可能なことが何故文章ではできないのだろうかということだ。「ファーストフード」と「スローフード」両方の、或いは中庸の魅力を同時に提示し、読者に味あわせること。「フェミニスト」及び「フェミズム運動」について、男性の立場からではなく、中立的・中性的な立ち位置から新たな側面を発見するために語ること。「権力や地位や名声やお金以外の大切なもの」を、傍流としてではなく、読者が本当に大切なものと感じられるように、言葉を尽くして語ること。
それは決して、「男性に伍して」「権力や地位や名声やお金を求めて」やるようなものではないはずだし、女性でも、男性でも、その気になればできるはずのことだと思う。

街場のアメリカ論    NTT出版ライブラリーレゾナント017

街場のアメリカ論 NTT出版ライブラリーレゾナント017

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: NTT出版
  • 発売日: 2005/10/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


女は何を欲望するか?

女は何を欲望するか?

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 径書房
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 単行本


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無人島 [書評]

特に引越し好きというわけでもない(そう嫌いでないことも確か)なのだが、引越しの多い人生を送っていて、何よりも楽しいのは、引越した先の図書館に行ってみることだ。当たり前だが、都心に近い図書館は品揃えは素晴らしいものの貸し出し中の本が多かったり、田舎に近い図書館は品揃えはイマイチだが意外と人気のある本でも書架に残っていたり、それぞれの特色を持っている。昨年十数年ぶりに通った母校は、私が学生だった頃はボロい図書館しかなかったのに、総七階建てのいやに立派なものに生まれ変わっていて、ネットは好きに使えるし施設も綺麗で、何よりも映画学科があるだけに映画の蔵書が充実していて、初めて入ったときは「ここで寝泊りしたい」と真剣に思いつめたものだった(・・「海辺のカフカ」ね・・)。
今度の街の図書館はやはり品揃えはイマイチで、特に映画関係の蔵書の少なさには目を覆いたくなるほどで、ただ各国の文学や思想関係は意外と揃っている。魅せられたのはドゥルーズの「無人島」と名づけられた二冊の本で、美しい装丁につられて手に取ったところ、驚くほど重さがなく(単純に軽い)、パラパラとドゥルーズの言語に、思考に入り込んでいくうちに、「うーん、やっぱり無人島に持っていくならこの本かな」などと、無人島で過ごせるであろう贅沢な時間に思いを馳せてしまう。
しかし具体的に無人島に移住することなどを夢想してみると、引越しの度にどうしても捨てられず、自分の腰を痛め、引越屋に嫌な顔をされるダンボール箱10箱以上の蔵書について思いあたり、私の場合どうしても捨てられず船に積み、蔵書もろとも海に沈むのがオチかもしれないなどと思う。ま、それも一興か。
どちらにしてもしばらくは就寝の前の読書の時間が楽しみで帰宅が早くなりそう。

無人島 1953-1968

無人島 1953-1968


無人島 1969-1974

無人島 1969-1974

  • 作者: ジル・ドゥルーズ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2003/06/25
  • メディア: 単行本


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標的(ターゲット)は11人―モサド暗殺チームの記録 [書評]

ミュンヘン』の原作本を本屋で見つけついつい購入。面白かった! 特に冒頭から70頁くらいまでの、ほとんど映画には直接出てこないアブナー(原作ではアフナー)の父や母の描写、アブナーがモサドのために仕事をするようになったいきさつなどが面白い。映画も原作も決して明るい話ではないが、アブナーのキャラクターの魅力が大きかったことに改めて気付く。特に原作はジャーナリスト、脚本家などで生計を立ていてたジョージ・ジョナスが、アブナーのモデルに当たる人物を出版元から紹介され、直接取材と裏を取るための現地取材によって話を組み立てているため、アブナーの思考回路、強情でありながら情に厚く、大胆不敵でありながら脆い人間的魅力がよりよく分かるようになっている。エージェントの訓練方法や習性など細かい部分が分かるのも小説ならではで面白い。
映画が原作よりも強調していると感じるのは、テロにより無関係な人々が殺されたり怪我をしたりすることで、そこに9.11以降のスピルバーグのメッセージを読み取ることはたやすいことであろう。映画ではテロリストの幼い娘が爆弾で吹っとばしされかけたり、ホテルで隣り合わせた新婚夫婦が大怪我をしたり、一瞬でも心を通わせあった若者(アリ)を殺さなければいけなかったりするが、どれも原作にはない。スピルバーグの(或いは脚本家の)メッセージといえば聞こえはいいがまぁ少し商売魂のような気がしてしまったりもする。しかし相違点はそう多くない。5人のキャラクターもほぼ忠実だし、カール、ロバート、ハンス、女殺し屋の行く末などもそのまま。忠実でありながら上手く脚色しているな、という印象。
三合目から九合目までは細部を抜かしほぼ映画と同じなので少し退屈する人もいるかも。しかしラストは映画と違うのだ。私はこちらのラストの方が好きだった。あくまでテロの恐ろしさを訴えたいのだったら腰砕けなラストかもしれなかいが、私は個人は大義や組織に押しつぶされるほど弱いものではないと思っている。そう思いたいのかもしれないけど。ただそれって人間の歴史はそのために存在すると断言できるほど大層な問題じゃないか? スピルバーグの意図もその筋で解釈されるべきではないか。
この本自体、真偽をかなり疑われ、この本とは違う事実を提示する類書も出ているよう。『ミュンヘン』への遠い旅はまだまだ続くようだ・・(ってヲタク・・)。

標的(ターゲット)は11人―モサド暗殺チームの記録

標的(ターゲット)は11人―モサド暗殺チームの記録

  • 作者: ジョージ ジョナス
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1986/07
  • メディア: 文庫


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村上春樹をめぐる冒険 [書評]

状況は整ったのに、ロードショーに行く気がしない。アカデミー賞取った『クラッシュ』も、話題の『ブロークパック・マウンテン』も『シリアナ』も、勿論『マンダレイ』も、チェン・カイコー好きなのに『PROMISE』さえあのヘンな王冠みたいのにメゲて観る気せず。なんか疲れそうなんだもの・・。風邪と引越しのドサクサに紛れてBS2で観た『カラミティ・ジェーン』と『オール・ザット・ジャズ』は面白かったなぁ。新奇なテーマや、練りに練った脚本や、あっと驚くCGや、観客を奈落に突き落とすラストや、巧妙な演出なんてなくたって、愛すべきキャラクターがちゃんと動いていれば、そこにちゃんと人間が描けていれば、映画なんて面白いはずなのにね。
内田樹氏のブログhttp://blog.tatsuru.com/で、村上春樹の生原稿を古本屋に売ってしまったのがヤスケンだということを知る。朝日新聞では名前まで出てなかったので、もっと有名じゃない編集者なのかと思っていた。内田先生のコメントもなかなか面白いが、私はヤスケンのことをそこまでは悪く思えない。「偉そうでない」編集者になんか逢ったことないし、自分が編集やっていた時だって偉そうじゃなかった自信なんてないし、そもそも「管理」が重要な比重を占めるお仕事なのだから(ページに穴が開いたら執筆者も干されるかもしれないけど、なんとかしなきゃいけないのは編集者なのだから)、執筆者を恫喝するために偉そうにするのもお仕事のうちなのだ。偉そうにしていても「そんなことも知らないの!?」とついつい憤ってしまうレベルの人も存在するので、それに較べたら、やはりヤスケンは本好きだったし編集者としての知識は持っていた方じゃないだろうか。
実は去年の秋頃、最近の村上春樹の著作をまとめて読んだ。『スプートニクの恋人』とか『神の子どもたちはみな踊る』とか『アフターダーク』とか。人に大推薦するかというと微妙なのだけど、通勤電車の中でそれらを読んでいる時間が幸福だったことは確かだ。内田氏が言う「村上春樹に対する集合的憎悪」に関しては、「洋物(アメリカかぶれ?)」「なんだかんだ言って、モテる男性主人公(読者は当然村上氏本人がかぶる)」「キャラクター(かえるくん?)」など、むしろ一つ一つはどうでもいい細部が積み重なって反感や憎悪に繋がっている気がしないでもないが、私が「村上たたき」の反論というか槍玉にあげるとしたら、相応しいのは癌に侵されながら日本の代表的作家の生原稿を古本屋にたたき打った編集者なぞではなく、蓮實さんら村上春樹をみそくそに批判した批評家たちだと思う。

神の子どもたちはみな踊る

神の子どもたちはみな踊る

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/02
  • メディア: 文庫


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